3)死に装束の兄(1)

祖母が死んで祖父と2人になりました。

80歳になる祖父と子供の私ではお互いに面倒を見られない、と言う事で父の弟

である叔父が祖父を見ていく事にになりました。

と言う事で叔父の家族7人。 はみ出した私は東京に住む父や兄妹達と暮らすた

め、引き留める人の居ない山陰を一人離れました。

初めて見るその家は大東亜戦争と言われて始まった(太平洋戦争)が敗戦で終わ

った2年後で見渡す限りの焼け野原に立つバラックと呼ばれる住い。

山陰の家の物置のほうが広くて立派だと眉をひそめ、逃げ出したかった。

家族構成を説明すれば、

生母の妹が夫を亡くし、父と結婚して3歳年下の妹が居ます。

3人の兄と次兄、母の連れ子のお兄さんの9人家族です。

父は米軍庁の経理をやって居て、勤務先からあてがわれた庁内の建物に住み、金

曜日の夜帰って来ては月曜日の朝に相模原に帰ります。

生母の妹で、父の後妻でもある第2の母を、兄達はおばさんと呼び続けていま

した。 兄達はその母に懐かなかった。

その成果兄達と父母は仲が良くなさそうで、同調しあわない。

またすぐ上の3男坊の兄は父が戻るたびに怒られていました。

兄達を軍人にしたい祖父の考えで、長兄は海軍兵学校、次兄は陸軍に行ったそう

ですが、3男坊の兄は医者にしたい、と言う父の想いを拒否して、それが重なる争

いの素だったのです。

その兄は私が同居して1年ほど、15歳で家出をしてしまいました。

父は私の山陰訛りが気に入らなかったようで、兄がいなくなってからは私がター

ゲット、 父を避けるようになりました。

20歳になった頃、私も長兄と家を出る話が持ち上がります。

兄がパイロットになり、本門寺さんに近い部屋を借りた為、誘われてその気にな

ったのです。

パイロットの兄は帰宅が不規則でいない事が多く、私は一人で寝起きして日比谷

の会社に通って居ましたが、 何か月か経ったある日曜日。

15歳で家を出ていた下の兄が訪ねて来ました。

私とは仲良しだったけれど医者になるのが嫌で、父と衝突して出て行った兄は

昼間、建築現場で働いて、夜は時々好きなギターを抱え飲み屋横丁で流しをやっ

て居ました。 歌手になりたかったのですね。

その兄が言うには、仲間に毎晩のように誘われて飲み屋に通う内、体を壊してし

まったので、建築を辞めて寮を出たい。

他の仕事に就く為、当分此処に住まわせてほしいと言う話です。

私たちに厭はありません。

10帖の部屋に3人、私の寝床は2間ある押入れの上段でした。

山陰訛りが


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